スツール

ターバン女のひとりごと

2024.03.15 更新

『踊る日本人14』

先日思うところがあって、モーレツにめんどくさくなって、

「お母さん、もう踊りやめるわッ!」

と、息子に言い放つと、驚いた表情で、

「え〜!あんなにお稽古頑張ってたじゃない、やめないでよ、もったいないよ!」と、冷静に諭された。

「ラグビーやめたい」と言い出す息子には、「ここまで続けてきたんだから、何言ってんの!頑張りなさい!あと1年はッ!」と冷酷になるくせに、自分のことになると、あっさりと「やめちゃお〜」となる、せこい母親なのである。

そして息子に諭され、悲しい顔をされ、ハッと我に帰るのである。

先日、人生で初めて着物で自転車に乗った。お稽古の時間に歩いて行ったら間に合わないので、仕様がなく自転車に乗る、と言う選択肢になっただけなのだが。

非常に風の強い日で、捲れ上がる裾を押さえながら顔を歪めて自転車をこぐ。

「わたし今、着物着て、自転車に乗ってる!」と、はっきりと自覚すると、おもろさが倍増して痛快になってくる。どんな顔して乗っとんねん、と自分につっこみたいし、人生初、と言うのもまた心を陽気にさせるポイントでもある。

こうやって日常の生活感も伴ってくると、「普段着として着ている感覚」になるので、より着物を近くに感じられる。

式典や食事や、何か特別な時だけにしか着ないもの、ではなく、数十年前までは普段着として着られていた当たり前の物、と言う認識の方が気楽で落ち着く。

数年前に、メキシコ人の友人が我が家にきた際に、何か日本っぽいものをと、箪笥の奥に長らく仕舞われていた着物と帯をあげた。まだ踊りを習う前で、着物とは無縁な時代である。

彼女は「どうやって着るのかわからんけど、嬉しいわ」と言っていたけど、内心「ごめん、わたしもどうして着るかわからねん、、」と思っていた。

若干後ろめたさを抱えつつ、しれっと自国の民族衣装をプレゼントしていたことが、自分ってせこいな、と思ってしまう。

しかし今なら、例えばメキシコへ行った際に、その時のあげた着物を簡単なら着付けてあげることもできる。

ただの飾りであったものが、実用として使える、それが生きた着物、と言うことではないか、と着物で自転車をこぎながらぼんやりと思うのであった。

つづく

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