スツール

ターバン女のひとりごと

2022.10.15 更新

『メキシコのファミリア⑤』

日本に滞在中、ぜひどうしても行きたい場所があるとオスカルは言った。

それは墓参りをしてご先祖様に挨拶がしたいということだった。

前の晩にメキシコの土産であるテキーラをたらふく飲んで二日酔いの夫と、さすがテキーラを飲んでも朝から爽快な笑顔のオスカル、ナッシュ、ママ、そしてうちの息子と清水寺近くにある墓地まで出かけた。

途中、線香を買いに墓地に面した花屋に寄る。そこには仏具なども置かれているのだが、立ち寄って早々にファミリアたちが異様な興味を示し、これもあれもと仏具を爆買いし始めたのである。

普段は仏花や線香くらいしか売れないであろうこの店も、バブルのごとく大賑わい。店主は明らかに動揺しながら、仏具を慌てて新聞紙で包み、電卓をはじき出していた。

「ありがとうございましたーっ」と店主の高らかな挨拶の余韻を残しながら、目的地の墓まで向かった。

道中、花屋で火を点けてもらった束の線香から、ぼうぼうと音を立てながら炎がのぼりはじめた。消しても消しても炎が強まる。軽く火事だ。必死で火と格闘しながら墓へ急ぐ。

次回から束の線香には絶対に火を点けない、と心に誓う。

すでに半分は燃え尽きた線香を供え、皆一様に神妙な顔で手を合わせる。

まさかメキシコ人一家と墓参りをする日が来るとは、人生には思ってもみないことが度々訪れることがあるものだ。

墓参りを済ませると、一軒の茶屋に入った。我が家は墓参りの後、ここでみたらし団子を食べるのが恒例である。

二日酔いで死神のような形相の夫と、団子をおいしそうに頬張る息子、物珍しげに店内を見渡すファミリアたち。今日も平和だ。

その後、清水寺へ参拝する。

安産、縁結びなどのご利益がある、随求堂で「胎内めぐり」なるものに参加しようということになった。

仏様の胎内を見立てているという真っ暗なお堂の中、壁にめぐらされた数珠を頼りに進んでいくというものだ。

目が慣れても100%闇の世界というものは中々味わえないものである。周囲の気配にいつも以上に敏感になる。

入ったら「きゃー」だの「わー」だの皆騒がしくなるものかと思ったが、予想を裏切り、一同言葉を発しない。

それが余計に神聖さを増す。

 終始無言で暗闇を歩き続け、出口にたどり着いて光りを浴びる。

お堂を出て、ナッシュとママは子宝のお守りを念入りに選んでいた。

そのナッシュの横顔がとても真剣で、強く何かを想っている表情と、寄り添うママの姿がなぜだか忘れられない。

わたしは心の中で「ナッシュのお腹に子供が授かりますように」と拝んだ。

その後、境内を散策する中で、また奈良の仏像博物館での「なぜ?」「なぜ?」がファミリアたちを発動させることになる。

それは清水の舞台というキャッチーなスポットよりも、誰も気づかないような場所にひっそりと佇むお地蔵さんたちである。

オスカルは立ち止まり、食い入るようにお地蔵を眺め、そしてこちらを振り返り、真顔でこう言うのだ。

「これには一体どういった意味があるのだ?」

お地蔵さんの意味?

そんなことかつて人生で問うたことがあるだろうか。子供時代に地蔵盆でぼけーっとした顔して、たらふくお菓子をもらい、輪投げやヨーヨーすくいをした記憶しかない。

メキシコという地からはるばる日本へやってきた友人たちが、日本の歴史文化に興味津々なのである。

これはアイドンノーでは済まされない。

血眼でグーグルで検索し、夫に通訳を頼む。

以降、「これは、どういう意味が?」と聞かれる度に、グーグルは作動する。もしスマホがなければ、わたしは一体どうやってオスカルに伝えようとするのだろうか、なんて考える間も無く。

もうなんでもない石を見ても、「何か意味があるのでは・・」と勘ぐってしまうくらい脳内は「なぜ」で占領された頃、清水寺を後にした。

(つづく)

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