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Sukkuのクスッと笑わせて

2022.05.16 更新

4月後半から5月に入りゴールデンウイークがありましたね。
皆さんはどのように過ごされましたか?
Sukkuは、ほとんどカレンダー通りでしたので3連休がありました。
今年のゴールデンウイークは、コロナ前の様にイベントが開催されることも多く、私たちも色々なイベントへ足を運びました。音楽に関するものでは、茨木音楽祭・高槻ジャズストリートへ。屋外で聞く生の音楽は、やっぱり最高。子供たちにとっては初めてのライブでしたので感激していました。これから夏に向けて色々なフェスが行われます。皆さんも一度体験してみてはいかがでしょうか?ちなみに登山も続けていますよ。

㊷コラム 「突然の別れ」


私が南丹市と関わるようになって、はや15年が経とうとしています。
病院勤務時代から関りのある患者さんは、鬼籍に入られている方がほとんどです。そんな中でも、病院勤務時代に担当となり現在はSukkuも利用してくださっている晶子さん(仮名)とは12、3年の付き合いになります。晶子さんは、脊柱管狭窄症、膀胱癌、腓骨神経麻痺、大腿骨骨折、骨盤骨折、高血圧・・など、数えたらきりがない状態。それでも、セニアカーを運転して毎日買い物に出かけ、カラオケを楽しみ、畑に精を出しています。少し天然で、マイペース。何よりも、いつも前向きで明るく、とにかく活動的です。
病院勤務時代は、病院から家へ訪問してリハビリをしていたので、ご主人とも顔馴染みです。表札に「秀次」と書いてあるのを見てから、私は“ヒデ爺”と呼んでいます。晶子さんにも「ヒデ爺、最近どうしてはる?」などと話しをしていました。
ヒデ爺と晶子さん、出会った時からよく口喧嘩をしています。それでも、お昼寝後の3時のおやつは、二人で温かいお茶を飲みながら芋けんぴを食べる。というのが長年の習慣。そんな二人はあーだこーだ言いながらも、毎日畑作業をして、二人では到底食べきれない量の野菜を栽培します。そして、収穫した野菜を我が家も含めて色々な人にお裾分けしてくださいます。米寿を過ぎてからも日課の畑作業を楽しみにされていますが、ここ数年は肥料を運んだり南瓜などの重い野菜を収穫することが難しくなってきました。なので、私の奥さんが手伝いに行って草を抜いたり、収穫をしたり、重い肥料を運ぶときは私も手伝ったりしています。
私たちが畑を手伝っている間、夫婦は何をしているかというと・・晶子さんは一人でずーと草を抜いています。そして適宜、肥料の置き場所、撒く量を私たちに指示しています。一方のヒデ爺は・・畑の椅子に腰かけて何かしていそうだけど何もしておらず。ただ陽を浴びているだけです。そして、「寒い~寒い~」と言いながら、服をいっぱい着込んで、ポケットに手を入れて太陽に背中を向けて身体を暖めているのです。
そんなヒデ爺は夏でも、「寒いわ~」が口癖。心臓が悪く、よく足も浮腫んでいます。最近は年に数回、病院に入院して治療を行っているのですが、今年の2月も心臓の状態が悪くなり再入院となりました。
一方の晶子さん。ヒデ爺が入院中のとある日曜日の昼に、私の携帯電話に晶子さんからの留守電が入っていました。「さっき家でこけて足に力が入らないんやけど・・。すぐ診てもらえんやろか?」という内容。私はその時、家族で外出していて園部には居ませんでした。しかも着信から1時間も経っていたのです。何でこんな日に限って・・‼と、焦りと、不安と、心配と、色んな気持ちの中、急いで折り返しの電話をしました。すると子供さんが駆けつけていて、もうすぐ救急車が来るとのこと。
診断結果は大腿骨骨折・・・そして手術。
まさかの夫婦そろっての入院・・・。
晶子さんは、かなり大きい怪我ですので、長期間の入院となりました。しかも、その入院中の病院でコロナのクラスターが発生し、晶子さんも感染してしまったのです。高齢で持病もある方ですので、私たちは大変心配していました。しばらくして、本人から電話がかかってきて、「コロナになってしまって大変やわ!なんもえらくないけど。はっはっはっ!」と、いつもの笑い声を聞き、私たちはホッとしました。

しかし、そんな安心した電話の3日後、ヒデ爺が今朝亡くなったと関係者から連絡を受けたのです。
とても驚きました。もうすぐ退院と聞いていたのに・・・。
家族でお通夜に行きました。
ヒデ爺の顔を見ると泣けてきました。
寒い寒いと言いながら、身体を丸めて日光浴していたのに・・・。
もう畑に行っても会えないんやな・・。
もう二人の口喧嘩も聞けへんのやな・・。
大好きやった家に帰って来たかったやろな・・。
最後は、晶子さんに会いたかったやろうな・・。
あまりに突然の別れに、ただただ悲しい気持ちでいっぱいになりました。

可哀そうなのは晶子さんです。
コロナの関係で、病院から出ることが出来ず、ヒデ爺のお通夜やお葬式にも行けません。60年以上一緒にいたのに・・最後を見届けられないなんて、あまりにも残酷です。
晶子さんの精神面は大丈夫か、とても心配になりました。お通夜から帰り、私たちはさっそく晶子さんに電話をし、ヒデ爺にお別れをして来たことを伝えました。晶子さん、「もうアカン思てた。」と一言。それからは、ずっと畑の話し。私達もうまく言葉が見つからず、晶子さんの話を聞く事しかできませんでした。晶子さんの明るさが、何だか気丈に振る舞っているように感じ、余計心配になりました。

あれから2か月が経ちましたが、晶子さんはまだ入院中です。家に帰って来られるように、一生懸命リハビリを頑張っておられます。時折、私の奥さんに電話がかかってきて、「野菜の収穫と草抜きをお願い。」「夏野菜も植えといて!今ある野菜はそのまま食べといて!」と連絡があります。
まだまだ、晶子さんは畑やる気満々です。
けれど、晶子さんは知りません。
入院中に子供さんたちが帰ってきて、畑道具など一式を片付けてしまったこと。畑にはマルチがひかれ、草が生えないようになり、もう以前のように野菜を栽培することが出来なくなったこと。
子供さんたちは、離れて暮らしているので仕方ないことです。

そして、私が“ヒデ爺”と呼んでいた晶子さんのご主人。
実は、「秀次=しゅうじ」と呼ぶのだと知ったのはつい最近でした。
晶子さん、教えてよ。
天国のシユウ爺ごめんね~。(おしまい)

次回のコラム「80歳の筋肉系スーパーばあちゃん」

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