なんども同じお話になって……すこし恐縮ですが、今回もまた、愛猫もものことから書きはじめようと思います。
この夏、2か月ものあいだ急性膵炎を患って、なんとか回復したももですが、先日また腎臓をわるくしてしまいました。ももは18歳。人間でいえば90歳近くのおばあちゃん猫です。なにしろ猫は人間の4倍の速さで年をとりますから、あっという間にそんな年齢になりました。
度重なる病気に、わたしは一度は覚悟を決めたものの、ある夜ももが吐いたあと、そう遠くない日にももを失うことを思い、号泣してしまいました。生命には限りあることがわかっていても、今はまだ別れ難い……。
先日ある方に、悲しみが絶望になると、怒りになり、審判となる、という話をうかがいました。審判とは、その悲しみの原因を、誰かのせいにして犯人探しをすることです。あのひとのせいだ、いや、自分が悪いのだ、というふうに。
しかし、仏教では、悲しみは、あきらめや許しとなり、やがてほほえみや笑い(ユーモア)に至る、と説かれているそうです。
鹿ヶ谷の法然院の貫主、梶田真章さんは、「他者のために、他者の安らかなることを悲しみ願う」という言葉を、さまざまな機会に話されています。
ここにある「悲しみ」とは、なんと深い言葉なのでしょう。それは、ただ悲しみ嘆くことではなく、他者の悲しみに心を寄せ、思いを同じくし、ともに悲しむことなのです。そういえば、慈悲という言葉も、他者の喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しむという意味だと、なにかの本で読んだことがあります。
ももを失えば、ももとくっついて眠ったり、遊んだり、いっしょにごはんを食べたりできなくなります。けれども、今までずっとそうやってこられたことが、いろんなことがつながって、重なって、あり得ない幸福が結び合わさって、できた18年なのだと気づきました。
ももはいま、最晩年の日々を懸命に生きています。その日々をたいせつにしていこう。そしてその先にはきっと、やさしいあきらめや許しや、微笑みが待っていることでしょう。
今日は、まど・みちおさんの詩集から一編の詩をご紹介して、この文を終わります。
『きょうも天気』
まど・みちお詩 谷内こうた絵 至光社
「きんの光のなかに」
この世には草があるし木がある
というようにして鳥がいるし獣がいる
というようにして日々が明けるし四季がめぐる
というようにして生かされている
ふりそそぐ秋のきんの光のなかに
という思いに浸れるのを幸せとして
このかぎりない物事のなかの
どんなほかのものでもない
これっきりの
見えないほどの無いほどの
一粒として
写真・文/ 中務秀子