お正月にラジオの新春特別番組を聴いていましたら、作家の瀬戸内寂聴さんと高橋源一郎さんが対談をしておられました。「2020年はいかがでしたか?」と聞かれた寂聴さんは、一言、「いやな年だったわね!」と。百歳を迎えた僧侶の口から発せられた言葉は、なんとも爽快な一言でした。
コロナショックのこの一年を振り返って、不思議な、とか、奇妙な時間だった、という感想はよく耳にします。わたしもそう思います。そしてあえて明るく前向きに、新たな時間を見つけられた、などとも言ったりします。たしかにそうなのです。
でも、この日聞いた「いやな年だったわね」には、思わず爆笑してしまいました。だれしも落ち込むのはいやなもの。ことに人と話すときなどはなおさら、すこし笑いのオブラートをかけて語ろうとします。でもときには、思いっきり素直に、ぽんっと言ってしまうのもいいものだなあ、と思いました。もちろん人を傷つけるような、無神経な言葉はだめですよ……。
そう、2020年はやはり、つらかったですね、みんな。いいこともあったし、不便な中に発見もありました。けれども、会いたい人にも会えず、しなくてもいいいさかいもあり、わーっと大きな声でも笑い合うこともせず。みんな、しんどかった。みんな、えらかった。ここまで来られて。
そんななか、絵や写真や本が、子どもたちや動物たちが、救ってくれましたね。わたしはとりわけ、言葉に救われました。
わたしは言葉が好きです。だからそれが雑にあつかわれたりするととても悲しい。一方、たいせつにされた言葉に出会うと、生まれてきてよかった、と思うのです。
年があけて2、3日たったある夜、わたしは1冊の詩集を手にとりました。ひどく寒くて、みんな帰ってしまって、それなりに疲れて、すこしさみしいな、と思っていたときです。石原弦さんの『聲』という詩集です。知らない詩人でした。若い友人が、読んでみてください、とすすめてくれたのです。
その詩には、身近な植物、光や風、そして塵にまで向けられたやさしいまなざしがありました。やさしい、という言葉だけではとても足りない、なんと言ったらいいのかわからない、しんと静かな、見守ってくれているような、とてもとてもたいせつにされた言葉で語りかけてくる、詩人の声でした。
わたしは、小さく声に出して読んでいるうちに泣いていました。
「ひかりのさきっちょ」 石原弦
ひかりのさきっちょを
おさないこどもが歩いていく
そのすこしうしろを
わたしのこどもが歩いていく
あかるいひざしのなかを
わたしはゆっくりと歩いていく
ぼんやりとこどもたちのすがたを
ながめながら
こどもたちのこえが
川のせせらぎとながれてくる
そらのあおをうつして
川はあかるくながれていく
そらとうみのあいだの
とうめいなあおいながれを
わたしたちは川にそって
歩いていく
ひかりのさきっちょを
おさないこどもが歩いていく
そのさきには
みえるはずもない
まだうまれないこども
ひかりのなかを川にそって
ほら むこうからやってくるよ
犬をつれたおじいさんが
写真・文/ 中務秀子