まだまだ寒い日があるものの、陽射しは明るく、空気には春の光が満ちてきています。わたしの小さな庭にも、白やもも色の梅の花が咲き、種がとんで、庭のあちこちから顔をのぞかせるクリスマスローズの花盛り。愛猫ももも、光に誘われ、庭に出ようよ、と誘うので、久しぶりに、ももといっしょに庭散歩に出ることにしました。わたしは手にフィルムカメラを持って。いい光だったのです、ちょうどフィルム向きの。
ふだん、バタバタと忙しいアトリエの仕事場では、デジタルの一眼レフで撮っています。が、プライベートではフィルムで撮るのが好きです。なぜなのかなあ、と考えました。
59歳でフィルムカメラをはじめました。もちろん、すでに老眼もきていて、もともと弱視に近いほどのひどい近眼でもあるので、フィルム一眼で、ピントがオートでない愛機 CANON AE1は、わたしにとって、簡単に撮れるものではありません。でも惹かれるのです。何に?
フィルム写真のよさは、偶然性にある、とわたしは思います。ねらっても撮れない。もちろんねらって撮るフィルム写真もあるでしょう。でもわたしにとってのフィルムのよさは、”たまたまそうなった”という要素が入りこむ”すきま”だと思うのです。たまたま今日、この光だった、たまたまたシャッターを切った瞬間、この表情だった、など。その瞬間が、偶然かきとめれらている。漂っているもの、つかみにくいもの、その瞬間が。
その瞬間のすきまに、”想像”というものが入りこみます。すきま……わたしはこれはとてもいいものだと感じます。きっちりとつまっているものよりも、よいものだと。それは雑味ではなく、楽しい気分を起こさせる遊び。そのすきまに、それぞれの人の思い描く”想像”が生まれ、すきまの奥に、広く深くひろがってゆく……。
そんなことを考えていて、わたしは何かにひかれるように、数十年ぶりに『ナルニア国ものがたり』という本を手に取っていました。第1巻『ライオンと魔女』にはじまるこの7冊の本は、わたしが10歳を少し過ぎたころに、生まれて初めて父にねだって買ってもらった全集です。その本を読むうち、わたしはえも言われぬ幸福感に満たされました。
何度も読み返し、慣れ親しんだ言い回し、素敵な挿絵、珍しい外国のお菓子や調度。そして何より、親から離れて暮らす4人のきょうだいが、古い大きなお屋敷の、衣装だんすの奥からファンタジーの世界に入りこむという、魅力あふれる物語……。わたしはすっかりその物語に包みこまれました。ほんとうに好きな世界がここにあった、と思い出したのです。その思いがある限り、わたしには、悲しみよりよろこびの方が大きいと思えました。また悲しみも憎むべきものではないとも。悲喜こもごもで、それでいいのです。
春の光が思いもかけず、わたしを子どもの頃に親しんだ想像の世界に引き戻してくれました。贈り物のような1日でした
『ライオンと魔女』(『ナルニア国ものがたり』第1巻)
C.S.ルイス作 瀬田貞二訳 岩波書店
写真・文/ 中務秀子