毎回このコラムには、本の紹介を書かせてもらっています。が、わたしがほんとうに書きたいのは、本の内容だけではないみたい、と最近気がつきました。
わたしの生活の中で、本はわたしの話し相手になり、聴き手になってくれています。つまりわたしは、毎日本と対話しているのです。それは、作者との対話でもあり、わたしの中のもうひとりのわたしとの対話でもあります。本はわたしの生活の、実にたいせつな核になっているのです。
と、いうことで、今回は、そんなわたしの本との暮らしを、毎日つけている日記から抜粋してお伝えしようと思います。
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3月3日(水曜日)
KBSラジオで「26回のホラ話」(MC ホホホ座の山下賢二さん)を聴いていたら、今日のゲストは、納豆製造業の人だった。その人の趣味はランニングで、自分の工場からホホホ座まで走っていって、本を山と買うという。山下さんが、「まるでナメクジか?っていうくらい、床を汗でビショビショにしていかはるですよねー」と言っていた。この納豆屋さん、読書家で、どんなに忙しくても、毎日必ず本を読むという。「続けるのが好きなんですねー」と。いいなあ、この話。そうだ! わたしもこの日記のように、毎日必ず本を読もう! 本を読んで、作者と話し合おう。ただ読むだけじゃない。そこで作者と対話をするのだ。わたしは作者に「敬意」を感じる。その敬意をきっかけにして、さらにわたし自身との深い対話につなげてゆこう。そういうきめ細やかな繊細な読み方を、わたしはしたい。
3月4日(水曜日)
今日は、大好きな雑誌、『MONKEY 』(柴田元幸編集)の最新号を読んだ。今回も、翻訳家柴田さんの「好き」が満載の、たくさんの海外文学が紹介されている。わたしにはその好きっぷりが、ほんとうに気持ちいい!
海外文学の翻訳作品は、外国の違う文化の世界と、わたしの生きているこの世界との橋渡しをしてくれて、ものすごく刺激的。遠く離れている世界に生きる人と、自分はつながっている。そう感じると、わたしはこの世界で決してひとりではない、と思う。そして安らかな気分になれる。自分を取り巻く世界とは違う、言葉も違う、でも、どこか底の方でつながってる……。そのようなシームレスな一体感が、わたしを安定させるのだ。
3月5日(木曜日)
スツールコラムのお仲間、5年生の琴子ちゃんが前回紹介してくれた、 荻原規子の『もうひとつの空の飛び方』を読んだ。この本では、コラムの同じ回にわたしが取り上げたファンタジー、『ナルニア国ものがたり』についてや、本を読むことについて、多くのページが割かれていた。以下すこし引用。
「なんのために架空のものごとを設定するかというと、自分たちが当たり前に暮らす生活に深みを与え、イメージを豊かにするためなのだ。毎日の日常を大事にするためにこそ、空想の物語がある。」
「本を読むことの効用は、体験とはべつの次元にあるのだと思う。たぶん……得た経験(否定的な体験も含めて)を自分の中に位置づけるとき、統合に必要な知識になるのだ。」
琴子ちゃんとわたしはゆうに50歳違い。孫のような彼女が教えてくれた本に、わたしは何度もそうだ! と膝を叩いた。すごいなあ、琴子ちゃん。教えてくれて、ありがとう!
3月6日(金曜日)
4月からわたしの生活に、ちょっとした変化が訪れる予定になっている。そのためわたしは、もっと本を読んだり文章をつづったりしていきたいと思う。それで、内田樹『街場の文体論』を読むことにした。つぎ読む本を決めるとき、だいたい、行きつけの恵文社さんで本を選ぶのだが、この本もタイトルがさっと目に飛びこんできた。今必要な本だ、と思えたのだ。そしてパラパラめくってみると、文章を書く心構えとして、次のようなことが書かれていた。
「読み手に対する敬意を大切にしましょう。(……)敬意とは、『読み手との間に遠い距離がある』という感覚から生まれます。(……)言葉がうまく伝わらない人にどうしても伝えたいことがある場合、(……)何とかして相手に想いを伝えようとする。(……)情理を尽して語る。僕はこの「情理を尽して」という態度が読み手に対する敬意の表現であり、同時に、言葉における創造性の実質だと思うんです。」
わー! と思った。わたしはこのところずっと考えていた、「距離」や「敬意」という言葉が、またここにもあった。
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とまあこんな具合に、ランニングをする納豆屋さんのように、わたしは毎日読書を続けて、なんやかんや考えたり感じたりして暮らしています。
写真・文/ 中務秀子