スツール

デコさんからの便り

2021.04.25 更新

 4月から、わたしのフリーランス生活がはじまって、ほぼ1か月がたちました(これについては、前々回と前回のコラムを参照してください)。

 引退の日に生まれた4番目の孫も、すくすく育って、このごろは抱き上げると目が合うように。赤ちゃんって、いつも思うのですが、生まれてからしばらくは、神様からの預かり物みたいです。そのころの赤ちゃんは、まだ向こうの世界に住んでいて、その後次第に、目が合い、オックーン、ウックーンと喃語を発し、ふんわりと笑みを浮かべるようになります。そうなればもう、この世界にようこそ!
 一方、わたし自身は、というと、コロナ禍のために1週間お預けだった赤ちゃんとの初対面のその夕べ、人間ドックの結果を見て、ああ~っとなりました。腫瘍マーカーにひっかかり、再検査の通知……。その上、奥歯が勝手に割れたりして、抜歯。さいわいどちらも、検査も処置も無事にすみましたが、ことほど左様に、いいこともそうでないこともかわるがわる起こってくる、いつも変わらぬ日常でした。
 そんな日々に出会った本は、この本です。

『ダンス・イン・ザ・ファーム』(副題:周防大島で坊主と農家とその他いろいろ)
  中村明珍著・ミシマ社

 瀬戸内海の西端に位置する周防大島で、僧侶、農業、その他いろいろを営む明珍さんの日々のあれこれ。もともと東京でパンクバンドを組んでいた明珍さん。その周りではまあ、さまざまなことが起こります。明珍さんとは、この本より前に、独立研究者の森田真生さんのトークイベントでその声に接していたのですが、そのおり、「ボク、いじられやすい人だったんです」と語っていました。感じやすくいじめられやすい人が、好きだった音楽をやめ、島で再生? そのことにわたしはおおいに興味が惹かれました。

 一時音楽は、ほんとうにすっぱりやめてしまった明珍さん。その事情にはさらりとしか触れらていませんが、なんとなく事情はわかります……。だって明珍さんは、島に来てから、そこが「生命そのものを感じられるちょうどよさそうな場所」だと気づくのですから。それまではたぶん、そうではなかったということでしょう。

 もちろん島にも多くの問題があります。まず超高齢化。音楽をやめたあと、まず僧侶の修行をして、その後なりゆきから農業もするようになった明珍さんは、ここではかなりの若手です。でも島のお年寄りは、80、90になっても現役。できることはなんでも自分でやり、得意でないことは誰かにお願いする、の精神で乗り切っています。そうすることで、目に見える形となってできてゆくことや、見えないけれどたいせつな縁のようなものも、いっしょに立ち上がってくるのです。若い明珍さんはそこから多くのものを学びます。

 島に古くからある習慣の「お接待」も、そのひとつ。
 あるとき、島と本州を結ぶ大橋に大型船が衝突し、長い間断水するという大事故が起きました。島外から支援の物資が届けられ、自衛隊が給水にきてくれました。そんな中、島の人たちはただ助けられるだけでなく、自然発生的に、近所の子どもたちにおかずをふるまったり、自衛隊の人にもそれらを届けたりしはじめたのです。

 もともと周防大島では、お遍路が行われていました。島の人々が、道行くお遍路さんに食べ物を施したり、一夜の宿を提供したり。それは、人々自身の供養や修行となり、ひいては喜びにもなっていたのでした。そこには、自分たちだけでなく、みんなが幸せでいてほしい、という人々の祈りや思いがある、そしてそれは、今ここにある現実の一歩先にある理想なのだ、と明珍さんは感じました。

 こうして明珍さんは、いろんなご縁もいただきながら、同時に、自分なりにできること、自分が楽しいと思うことを、周囲の人と分かち合いたい、という気持ちをもつようになります。島外の人も楽しめるイベントをつくったり、農作物の直販や配達をしたり。それはもちろん、商売でもあるけれど、そもそもの喜びを人々と分かち合いたいという営みでもありました。明珍さんは知らず知らず、島の「お接待」の精神にも通ずる営みによって、浄化されていくのでした。

 大きな事故が起こっても、自然災害が起こっても、島の人々はその現実を認めて、受けとめていく。

「受け止めるというか、自分たちの生命、心や身体の土台をもう一回思い出す。何をベースにして生きているのか。生きていて楽しいのはどういうことか。事故を経た今、そう思う。」

 こう書く明珍さんの言葉を受けとめて、わたしも動きながら、立ち止まりながら、周りの人や自然ととけあって生きていきたいと思います。

写真・文/ 中務秀子

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