スツール

デコさんからの便り

2021.04.10 更新

 4月。わたしの引退生活がはじまりました(そのいきさつは、前回のコラムを読んでくださいね)。
 35年の間、途切れることなく続けた活動から離れて、やはりさみしいかなあ、退屈するかなあ、と思いました。でも、一瞬そう考えたのち、そうだ、初めてのフリーランスだ! と気づいたわたしは、もうすでにわくわくしはじめたのです。そしてまず最初にしたことは……生活時間を大幅に変えることでした。

 朝は5時に起きます。それから、いちばん好きなことを、起きてすぐにします。それは日記を書くこと。1時間書いて、そのあと2時間本を読む。それでもまだ8時! 充実した気分で1日をはじめると、その気持ちがずっとつづいて、なんとも気持ちがいいのです。

 こうして新しいステージをはじめたわけですが、自らの限界を知り、長くつづけたことを終えたことで、多少の人間関係は変わりました。しかしわたしはそれも、ひとつの贈り物ととらえることにしました。変化は、次の出逢いへの贈り物でもあると。
 はじめての経験にはもの怖じもあるでしょう。しかしおそれることなく、不慣れなこともこつこつと地道に練習すれば、なんとかなるのじゃないか。そうすればいつかわたしには、楽しいうれしい気持ちが訪れるだろう……。

 気持ちと同時に、体も整えるために長年ヨガも続けていますが、ヨガの先生が、あるときこうおっしゃいました。
「自分の体の調子を整え、気持ちよく楽しくしていられることで、いつかだれかの役に立てるといいですね」と。
 体と心。自分自身のものでもあり、また環境ともとらえられるそれらを、また新らしい目で見直してみたい。61歳のわたしは、今そう考えています。

 さて、今日の本の紹介はこの本です。

『「利他」とは何か』
 伊藤亜沙 中島岳志 國分功一郎 若松英輔 磯﨑憲一郎・著
 集英社新書

 仕事にしろ、日々のさまざまな活動にしろ、ひとは自分のやりたいことをしたいものです。そして、やりたいことをするその先に、誰かがよろこんでくれたらうれしいなあ、と思うことも多いのではないでしょうか。自分のやりたいことが、人を喜ばせることができれば、それに勝る自分自身の喜びはないのではないか。

「利他」という言葉を聞いたことがありますか?
 利他とは、ひとの役に立つこと。と、まず思えますよね。でもそれが、ひいては自分の喜びになるなら、人のためと言いつつ、ほんとうは「自分のため」、つまり「利己」なのではないか? 利他と言い上、実は愛の押し付けや、他者のコントロールになっているのではないか?
 ではほんとうの意味での「利他」とはなんだろうか? そのことについて、5人の著者が考察を重ねたのがこの本です。その中で、主に伊藤亜沙さんと中島岳志さんの考えを紹介したいと思います。

 伊藤さんは、「利他」においてたいせつなことは、他者への距離と敬意だと言います。相手を自分の思うようになってほしいとコントロールしようとせず、相手の積極的な可能性を引き出す。そのためには、他者を気づかい、耳を傾けて、言葉を拾わなければなりません。つまり、「利他」はケアのようなものだ、と言うのです。
 ケアとしての利他には、こちらの思いを超える意外性があり、その意外性をも喜ぶ姿勢がいります。つまり、相手がちゃんと入りこめる様な「うつわ」のような、「余白」のような思いが「利他」なのです。言い換えれば、他者の尊厳をいつくしむ気持ちが「利他」なのです。

 中島さんのアプローチは、利他を、「自力と他力」の観点から考えるものです。自力とは、自分がこうしようとする能動的な行為です。他方、他力とは、どんなに自力でなんとかしようとしても、さまざまなものが関係してきて、自分の力とは別の力が働くことを言います。
 わたしたちがだれかを愛するときも、なにかの思いに至るときも、自分だけでそうなるのではなく、まるでわたしたちに「愛が宿った」、わたしたちに「思いが宿った」と感じることがあります。それが他力です。そのときわたしたちは、自分の無力を知るにいたります。自分だけの力ではない、なにか別の力の訪れによって、わたしは成り立っている。
 ただ自分の力だけでこうなったと思い込むより、自分が力を尽くした先に、自己の限界を知り、その限界に立ったとき、他力がおのずとやってくる、と中島さんは、仏教の考え方を引きながら説いています。「利他は行うのではなく、生まれる」と。

 自らのよろこびと、他者のよろこびが、しあわせにも分ちがたい状態になることを、わたしは日々の暮らしという練習を通じて、目指してゆきたいと思っています。

写真・文/ 中務秀子

ご予約ご質問