梅雨も後半。先日はものすごい雨が降りましたね(被災地域のみなさん、お見舞い申し上げます)。わたしの住むあたりも夜通し警報が鳴り続け、近隣にも避難指示が出されました。翌日早く、朝の光がさしてくると、心の底からほっとしたものです。
早速、家のまわりを見て回りました。あちこち泥はねはしていたものの、どこも無事。ところがふと見ると、水鉢のメダカたちの様子がすこし変なのです。体の色が赤っぽく変わっている? お腹の下にはなにやら黄色いかたまりが……。あ! 卵だ!
コブタたち(…孫です 笑)のパパ(つまり息子です)がメダカにどはまりしていまして、4月に稚魚をくれたのですが、それが育ってもう親に! ええ~なんて早い!
そこで、親メダカを網ですくって、お腹を指でさすって卵を取りわけました。卵は意外に固く、つまんだくらいではつぶれません。これを別の容器に入れて育てます。そうしないと、せまい水鉢のなかでは大きいメダカに食べられてしまうのです。卵は10日くらいで孵化するのですが、さてどうなるでしょう、生まれるかな? 楽しみ楽しみ、です。
コロナ禍のあいだ、みんなほんとうに苦しい状況になりました。わたしにもつらいことはありました。でもそんな中、わたしにとってよかったのは、時間がたっぷりできたことです。もともと好きだった猫や読書や植物や写真にくわえ、編み物、野菜づくり、メダカ……。どれも決して大きなことではありません。けれど、小さなことの積み重ねで、日々よろこびをみつける時間を手に入れました。出かけられない、人に会えない不自由を、時間といううれしい自由に変えたのです。
けれどもただひとつ、残念なことがあります。それは……大好きな映画館に行けないこと。もちろん、行こうと思えば行けるのです。が、体が丈夫でなく、去年5つも病気をしたわたしは、できればたくさん人が集まるところは行かない方がいい……。
また、映画は家でも観られます。が、やはり映画館で観るのは格別なのです。それは、行き帰りをするということ。家を出て、映画館に着くまでのあいだの高揚感。暗い上映室に入って待つ時間。まっくらな中、どこか遠い別の世界にさらわれていくような、物語に浸り切る深い感覚。そして、観終わったあと、夢遊病者のようにふらふらと家路につく時間……。このような、行って帰る感覚は、ほとんど映画館でしか味わうことができません。
ワクチンが打てたら行こう、と今は思っていますが、さいわいにも先日、その代わりになる、いやそれ以上に素晴らしいとも言える、すっかり別世界へ連れて行ってくれる本に出逢えました。
『中国・アメリカ 謎SF』
柴田元幸・小島敬太編訳 白水社
これは、過去にほぼ未紹介の作家たちのSF短編アンソロジー集です。アメリカの作品を柴田元幸さんが、中国の作品を小島敬太さんが訳しています。SFというと流行色、エンターテインメント色が強いものも数多く存在しているのですが、こちらはかなりレベルの高い文学作品たち。レベルが高いと言っても重厚というわけではなく、軽妙で面白く、でも深い。そういう作品を書く新しい世代のSF作家が、中国にもアメリカにも、今たくさん存在しているようです。
世界中どこもそうですが、米中も、近年ますます政治的にも文化的にも環境的にも、非常に厳しい状況にあります。また、最先端と最下層が同居する、目も眩むような格差社会でもあります。だからこそそのことがかえって、不思議なおとぎ話のような優れた作品を生み出す原動力になっているのでしょう。人々は、夢と想像と謎で現実を解釈しようとしているのです。
わたしがとくに面白く読んだ作品は、中国のものでは「マーおばさん」。とても奇想天外で、すこしでも紹介するとネタバレになってしまいそうなのですが、ビッグデータや最先端コンピュータの行き着く先……のようなお話で、いわばコンピュータに自我は生まれるか、という疑問を扱ったお話です。いやほんとに、こんな想像ができるとは! 謎に触れて、心地よい酔いさえ感じられました。
アメリカの作品では、「曖昧機械」が素晴らしかった。こちらの方は、人間の自我の曖昧性を描いているのですが、どこまでが自分でどこからが自分でないのか、そういった古来からある感覚を、記憶の観点から描いています。しかしそこに最先端の機械が関わっているところが実に現代的で、かつその機械が異様に魅力的なのです。柴田元幸さんによる翻訳文がまた絶品で、わたしはなんども小さな声に出して、ひとり朗読を楽しみました。
思えば、わたしが初めて触れた極小のメダカの卵にも、驚くほどの謎がつまっています。あの小さなつぶつぶに命がつまっているように、小さな物語にも深く広々とした命の謎に満ちた世界がつまっています。どうぞ読んでみてください。
写真・文/ 中務秀子