スツール

デコさんからの便り

2021.11.15 更新

 あっという間の2週間がたち、またコラムの日がやってきました。そのあいだに、大きい選挙があり、コロナはどういうものか、不思議な落ち着きをみせ(このまま続けばうれしい……でもそうもいかないのだろうなあ)、季節は立冬を迎えました。

 11月の空は、晴れて青く高く、またときには寒々しく曇って、灰白色の不透明な空になります。そんな空を見あげて、なにをするでもなくぼんやりと寝ころがっていると、たまらなく旅に出かけたくなりました。と言っても、まだそんな願いはやすやすとかないそうにもありません。そこでわたしはこんな本を手に取りました。

『サガレン』
 (副題:樺太/サハリン 境界を旅する)
  梯久美子 角川書店

 梯久美子さんは、ノンフィクション作家で、さまざまなすばらしい名文の作品を書かれています。この本は梯さんの最新の旅行記ですが、それはコロナ禍のほんの直前のことで、以前はこんな風に旅に出られたのだなあと、つくづくと思いやられることです。

 サガレンとは、樺太/サハリンの旧名で、北海道の北にある、特色のある細長い鳥の足のような形をした島です。ここであまり詳しくは述べませんが、サハリンは複雑な歴史をもっています。古くはアイヌの人々が住んでいましたが、その後、ロシアや日本が、あるいは豊かな資源を求める開拓地として、あるいはこの極寒の地に罪人たちを追いやる流刑地として、この島を利用するようになりました。彼らは古い人々を追い払い、争いを繰り返し、そのたびに国境線が引き直されたのです。
 この国境線を観ようと、今からちょうど100年ほど前に、林芙美子や北原白秋、チェーホフや宮沢賢治が訪れています(100年前というと、世界中で死者4、5千万人とも1億人ともいわれるスペイン風邪というパンデミックが起こった時代です。しかしここではそのことには触れられていません)。

 無類の鉄道好きでもある梯さんは、サガレン(サハリン/樺太)をめぐる文学、歴史、自然を、鉄路をたどりながら、豊かに語ります。作品は2部に分かれていて、前半は寝台急行サハリン号に乗って、冬の北緯50度の旧国境を超え、芙美子や白秋がたどった歴史の足跡を追っていきます。そこでは明治、大正、昭和と、世界に勇ましく乗り出していこうとした日本の姿も、美しい占領都市や油田など開発の痕跡が、今では痛ましい廃墟となった歴史として、興味深く語られます。

 しかしこの作品の白眉は、後半の宮沢賢治の旅でしょう。宮沢賢治は、最愛の妹トシを亡くした翌年、故郷の花巻からサハリンへ、傷心の旅に出かけています。
 その途上、賢治はトシの死を悼む深い悲しみと怒りの詩を残し、やがてサガレンの地を踏んで、北の海の深い色に触れるにつれ、トシの死を受けいれる気持ちも生まれてゆきます。そして、このとき賢治の眼に焼きついたサガレンの深い海の色や、澄んだ光や花々のイメージが、のちに『銀河鉄道の夜』のもとになったといわれているのです。

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
 客車のまどはみんな水族館の窓になる
 (乾いたでんしんばしらの列が
  せはしく遷つてゐるらしい
  きしやは銀河系の玲瓏レンズ
  巨(おほ)きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
  (中略)
 あいつはこんなさびしい停車場を
 たつたひとりで通つていつたらうか
 どこへ行くともわからないその方向を
 どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
 たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
                (「青森挽歌」より)

 亡くなった妹トシの魂はどこへ行ったのだろうか。旅のはじめ、賢治の心には、ずっとそのことが重くのしかかっていました。熱心な仏教者でもあった賢治にとって、死者の魂の行方は重要な問題だったのです。
 そのことと旅について、梯さんはこう書いています。

「死後、妹はどのような道をたどって、どこへ行ったのか。この問いを深く問うために、日常とは別の時間が流れる汽車の旅を、賢治は必要としたのではないか。その旅にふさわしいのは、できるだけ遠い、未知の場所だったろう。」 
 
 そして賢治は、トシの死が安らかなものであったことを願います。

 わたしたちが死んだといつて泣いたあと
 とし子はまだこの世かいのからだを感じ
 ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
 ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
 そしてわたくしはそのしづかな夢幻が
 つぎのせかいへつゞくため
 明るいいゝ匂いのするものだつたことを
 どんなにねがふかわからない

 樺太へわたり、北へ北へと向かううち、賢治の心は穏やかな気持ちに満たされてゆきます。空の青、海の蒼、花々のあお……その澄み切った青いところの果てに、トシがいる、と感じるのです。

「私に唯一わかるのは、旅の中では、ふと光がさすように、苦しみから解放される時間があるということだ。(……)見知らぬ土地で偶然に出会うさまざまなものたちーー植物や動物、ふれあった人々、そしてときには空の色や空気の感触までーーに、つかのまであれ救われ、力をもらうのが旅というものだ。」

 梯さんのこの言葉に、わたしはたまらなく旅情を掻き立てれられ、本を読んでいるあいだ、しばし心を遠くへ遊ばせることができました。どうぞみなさんも、本の旅へ出かけてみてください。

写真・文/ 中務秀子

ご予約ご質問