スツール

デコさんからの便り

2021.10.25 更新

 前回のコラムがつい2週間前。そのとき、「なんだかあたたかい……暑い? 秋ですね」なんて書いていたのに、このところ一気に秋が深まってきました。先のことはまだわからないとはいえ、新型コロナの状況もひととき落ち着きを見せて、人々は清透な秋の空気をもとめて、ぼちぼちと動き出した気配がしています。

 わたしもつい先日、ある少人数の対面講座に参加してきました。ここ1年半、ほぼオンラインばかりだったので、それはほんとうに久々の、複数の人と身近に接する機会でした。
 そこでわたしはある工程上の失敗を何度も重ね、なかなか先へ進むことができずにいました。すると、講師の先生がふいに、何も言わずにただとんとんと、わたしの肩に触れられたのです。そのやさしい手ざわりは、人との近しいふれあいを薄くしていたわたしに、一瞬の感動のようなものを覚えさせました。

 ついこのあいだのことのようにも思えますが、こうしたふつうのふれあいがひどく遠いものになって、長い時間がたちます。こうした中、人は、いやそれよりもっと、子どもたちはどんなふうに感じているのだろうと、わたしは改めて気になってきました。そこで手に取ったのが、この本です。

『おやときどきこども』
  鳥羽和久 ナナロク社

 鳥羽和久さんは、福岡で寺子屋ネットという学習塾をしています。20年間、いろいろな子どもと親に接してきた鳥羽さんは、今の子どもたちの生きづらさ、親との葛藤、求められている家族のかたちについて、鳥羽さん自身の試行錯誤の繰り返しから学び得たことから、ていねいに語っています。それはなにも、ひとりひとりの子どもの素晴らしさに気づいたとか、そういうことではありません。子どもたちが今どのような霧の中にいて、大人がいかにそんな子どもたちの言葉を奪っているか、むしろ大人みずからが自分を見失っているという現実を、克明に描き出しています。

 たとえばこんな子どもがいます。やる気のない子、するといったのにやらない子、約束をやぶって嘘をつく子。そんな子どもを前にして、親は、「この子はいったい、いつになったら自分の将来について真剣に考えるのでしょう」とか、「いつまで現実から逃げているのか」と言ったりします。

 しかし、その将来とは、現実とは、だれの目から見てのものでしょう。親自身が思う現実は、子どもがいずれ立ち向かう現実と、ほんとうに一致しているのでしょうか。親は自分のかかえた旧来の価値観をひきずったまま、世界はいつもその価値観でしか存在しないかのようにふるまってはいないだろうか。
 あるいはまた、まわりを見回して、速さや波長を周囲と合わせ、同じようにふるまうことを、子どもたちに強いてはいないだろうか。
 そんな言葉で子どもを縛る親は、子どものためと言いながら、その実、子どもたちに自己否定の気持ちを植えつけ、未来は不安に満ちたものだと脅しをかけているのではないか。

 大人は自分の感じる正しさが、今もこの先も、ずっと正しいものかどうかを、もう一度考えてみる必要があります。それを基準に子どもの人格を否定したり、不安を植えつけるのをやめて、いま目の前にいる子どもの現状を、ただそのままに見て、受けとめ、子どもといっしょに考え、ただちに判断を下さないでいましょう、と鳥羽さんは語りかけてきます。

 そして、結局は大人も、曖昧で不安な存在なのだということを認めなければならない、とも。大人もわからないのです。であればこそ、だれの責任でこうなったかの犯人探しをするのではなく、今はただそうなっているのだ、と認め、揺れながら、葛藤と矛盾をかかえながらも、ともに考えていこうという姿勢が必要なのです。

「物語りとして完結しないままたよりなく生きること、つまり語り尽くせないものや語りえないものを抱えたまま、偶然性に身を晒しながら生きることは、共感を前提としたコミュニケーションの現場から遠く離れた、自分独自の喜びを日々発見するような生き方なのだと思います。」

 そうした自分自身の喜びに気づくことができれば、「これでいいのだ」と自分を肯定することができます。それこそが、子どもが生き生きと前に歩みはじめる力になるでしょう。急ぎ足で解決に結びつけようとせず、ただ近づいて、シンプルな日常的な対話から子どもの心に触れることができれば、子どもは自らの力で現実に応答することができるようになるでしょう。このとき得られる喜びは、だれのためでもない、自分自身のものです。「このささやかな手ごたえが、子どもの人生を肯定的に支えるよすがとなる」、という鳥羽さんの言葉が心に残ります。

 何も言わずにとんとんと肩に手をおく先生の仕草によって、わたしは自分で自分の間違いに気づく余裕を与えられ、指導でも注意でもない、いっしょに考えましょうね、とでもいうようなフラットな励ましを受けとることができました。何度もやり直したことは、苦痛でもなんでもなく、間違ってはいても自分で気づけた、自分で直せたということが、うれしいよろこびとなって、その日のわたしに残ったのでした。

写真・文/ 中務秀子

ご予約ご質問