
私は、様々なご家族の写真撮影とアルバムを制作するスタジオを営んでいる。その傍ら年に一度「こどもカメラ」という小学生向けのイベントを実施している。こどもカメラという場こそ、 V. ターナーによるコミュニタス論に当てはまるのだと知った。
文化人類学者のターナーは人々の間に形式や階層がなく、フラットで直接的なつながりが生まれる特別な状態を「コミュニタス」と提唱した。例えば成人式や祭りなどの通過儀礼時に、社会的地位や属性から一時的に分離され 「リミナリティ(過渡でどっちつかず)」の状態になる。これがコミュニタスである。時間が経ち儀礼が終わると新たな状態で、また社会に統合される。社会構造→リミナリティ→コミュニタス→新たな統合、このような構造をコミュニタス論とよぶ。
「こどもカメラ」は、全く繋がりのない見知らぬ小学1年~6年生が集まる。勉強ができるとか苦手とか、運動が得意とか能動的に人と接することができないとか、不登校であるとかいじめにあっているとか、普段の立場やキャラクターは誰も知らない。つまりこの場はターナーが説くコミュニタスである。ふだん身に纏っている重たい甲冑を脱ぎ捨て、何ものでもない自分。ただイベントに参加して、その時間を互いに楽しむ関係である。
最初は母親から離れようとせず、下を向いているこどもたちが殆どで、なかなか交わろうとしない。イベントが始まる迄は、昨日までと同じ社会構造の一員である。ところが開始を告げ、各々が持ってきたカメラを手に母親から離れ街へ繰り出した途端、ガラリと様子が変わる。みんなとフラットな関係でいられる空気を察知して、この場にいる自分は何ものでもないんだとばかりに、コミュニケーションを取り始め、楽しく会話をして写真を撮影する。コミュニタスが生まれたのである。しばらくしてイベントの終わりを告げると、こどもたちは母親の所に戻り、いつもの社会へと統合される。しかし、今までとは違う新しい自分になったような顔つきをする。「こどもカメラ」というイベントを継続できた最大の要因は、自身も甲冑を脱ぎ、階層のない平等な場に身を置いたからだと理解できた。
長谷部先生の講義の中で、四国こどもとおとなの医療センターとアートの関係や、ホスピタルアートディレクター・森合音氏の仕事術を学ぶことで、自分も同様の事を行っていたのだと再確認した。
森氏は著書で、「医療という「父性」を補完するための「母性」としてアートはある」(註1)という記述が印象に残る。アートを通じて患者(こどももおとなも)を癒し、皆が参加できるボランティアルームでコミュニタスを提供している。
長谷川先生は、「現代は社会構造や産業構造の過渡期にある」と述べている。つまり、社会と新しい統合方法があることを示している。また、時間・空間・ジャンルを超えて新しい職能のデザインが必要であるとも述べている。フラットで階層意識のない仕事のデザインができれば希望が見える。
最後に、コミュニタスは自動的に訪れるものではなく、行動が伴わなければ出会えない場である。勇気をもって一歩踏み出す事が何よりも大切だと実感した。
「時間のデザイン」大学の授業レポートより