『踊る日本人20』
今年の夏も近所の小学校、自治会、職場の盆踊り大会と、着実に盆踊り道を歩んできた。
そこで気になったことがある。
踊っているのは子供たちか、お年寄りか、この二択に近い。
子供たちの保護者世代が参加せず、遠くから見ていると言う図をよく見かけた。
子供たちに踊ってきなさい、と言うけれど、肝心の大人たちの積極的な参加はなかなかお目にかかれない。
試しに「お母さんもぜひご一緒にどうぞ〜!」と声をかけてみるも、やんわりと苦笑いの後、潮の満ち引きのように綺麗に引いていかれる。
保護者からよく聞くのが、「難しくて踊れない」と言う声だ。
確かに最初はよくわからないと思うかもしれないが、盆踊りは基本的に同じ振りの繰り返しなので、一曲なんとなく踊ってるうちに覚えていくものだ。
完璧に踊れることが、本質でなくて、みんなで楽しむことが「それ」だと個人的に思っている。だから、踊れなくても楽しめばいいのだが、「ちゃんと踊らなければいけない」と思っている人が多いということかもしれない。
今年の長岡天神の夏祭りの盆踊りに、参加できなかった。毎年2時間ぶっ通しで江州音頭を踊るのだが、私はこの日のために生きていると言っても過言ではない。一年に一度のご開帳、という気分なのである。
それくらい盆踊り道の最優先事項だったのだが、今年は子供のラグビーの試合の遠征とかぶっていて、夜に帰宅した頃には余力2%で、もう浴衣に着替えて踊る力は残っていなかったのだ。ただただ疲労を感じながら爆睡した。
数日後、習い事の送迎時にあるお母さんに会った際、「天神祭行ったよ!探してたんだけど・・来てなかった?」と言われた。
そのお母さんは、常々私の暑苦しい盆踊り道話を聞いてくれていた人だったので、わざわざ子供さんを連れて遅い時間まで残ってくれていたのだ。
それを聞いて、余力2%でも、白目剥きながら這いつくばってでも行けばよかった!と、激しく後悔。がっかりうなだれる私に、そのお母さんはこう言った。
「踊り、難しいわ!ずっと見てたけど、手と足、どうなってるの?わたしやっぱり・・踊る阿呆にはなれんかったわ」
踊る阿呆に、見る阿呆
同じ阿呆なら、踊らにゃ損損
阿波踊りの有名なフレーズだが、確かに、私が人生で初めて盆踊りの輪に飛び込んだ時、全く踊れてもいなかったし、誰かにどう思われるとかもどうでも良く、子供そっちのけで、ただ一心不乱にパンパンのリュックを背負って、踊る阿呆になっていた。
頭が空っぽになり、心は解放され「なんか・・楽しい・・!」だけだった。
これが最初からきっちりと踊りを習って、という状況ならそこまで楽しさを感じなかったかもしれない。「なんかわからんけど」飛び込んでみる楽しさが盆踊りにはあると思う。
「ぜひ来年こそは踊ろう!!」と、そのお母さんと約束した。
白目剥いて、這いつくばってでも参加するつもりだ。
つづく