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デコさんからの便り

2022.02.15 更新

 年が明けて、はや2月も半ばになりました。みなさんいかかがお過ごしでしょう。
「1月往(い)ぬる、2月逃げる、3月去る」という言葉は、1月から3月までは行事が多く、あっという間に過ぎ去ることを言うそうですが、コロナ第6波の勢いが増し、つぎつぎと行事がなくなっても、時の過ぎるのは素早いものですね。

 わたしの身近にも感染した人が増えてきました。さいわい重症の方はいらっしゃらないのですが、学校や幼稚園は休みになり、仕事にも行けず自宅待機。その不安の大きさはさぞ、と思いやられることです。
 それでも、偶然か幸運か(はたまた、つらい努力でしょうか……)、わたしの周囲には心がまっくらになってしまった人はほぼ見うけられません。みな健気に耐え、助け合って、この事態をなんとか切り抜けようとしています。公的なケアは逼迫していると言われており、人々は互いの力で乗り切ろうとしています。この状況を、いったいどのように考えればいいのでしょう。

 そんな中、わたしは1冊の本と、Web上にあげられた翻訳作品を読みました。まず本は……

 『ケアの倫理とエンパワメント』
  小川公代著 講談社

 これはなかなか読み応えのある本で、わたしなどがご紹介するのは至難の業なのですが、難しくわからないところも含め、たいへん興味深く読みましたので、なんとか書いてみます。

 自立(自律)は、ひとが経済的、精神的に自分の力でやれるようになることを目指します。一方、「ケアの倫理」では、互いに依存し合う関係の方に価値を置きます。

 ケアは長いあいだ、女性(時に男性)など一方の犠牲を強いるものでした。ところが著者はある研究の結果、パートタイム労働をする女性が、経済的自立よりも家庭でのケア労働を優先したい、と考えていることを知って驚きます。しかしこれは決して女性が自立をめざしていないという意味ではありませんでした。

「〈ケア〉を社会全体で引き受けるような国の政策が打ち出されないかぎり、自己犠牲とわかっていても、育児や介護を担う多くの女性たち(時に男性たち)はケアを放棄しないだろう。なぜなら脆弱な存在の子どもや高齢者は、彼女ら(彼ら)のケアの行為なくしては生きてゆけないからだ。」

 つまりせっぱつまった状況下では、ケアは自立より優先されるというわけです。人間の良心において、ケアの価値は高いと人々は知っている。しかしその価値は、社会ではずっと低い位置に置かれたままだ、というわけです。がんばって自立を勝ち取るより、助けてという声をあげて助け合うことの方へ、社会はなぜ変わらないのでしょうか。

 現代社会がケアを軽視してきたこと。ほんとうの価値はどこにあるのか、著者はそのようなことを、古今の文学作品とからめながら語り尽くします。なぜ、文学なのか。それは、わたしはこう思います。ある人がこんなことをわたしに語りました。「物語を読むと、自分は風邪を引いたような気分になる。自分を乗っ取られたような感じがするから」と。なるほど物語にはそのような面があるでしょう。いったん物語に自分をあずけてしまわないと知ることのできない世界があるからです。病気もまたそのような一面をもっています。病に身をゆだねて回復する時が訪れるのを待つ。さいわい回復したときには、爆発的なよろこびが訪れます。待つ時間にこそ触れられる感覚があるのだと思います。

 この本は骨太ではありますが、ケアに興味がある方には名著だと思いました。

 さて、もうひとつのWeb上の翻訳作品は……

 「病気になるということ」(新訳)
  ヴァージニア・ウルフ著 片山亜紀訳
  https://www.hayakawabooks.com/n/nfb43f5f3b177

 ヴァージニア・ウルフは100年ほど前に活躍したイギリスの女性作家で、すぐれた小説をいくつも残しています。100年前というと、現在の新型コロナウイルス同様に、スペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)が世界中で猛威をふるった頃です。このエッセイは、繰り返しスペイン風邪にかかり、後遺症にも苦しめられたウルフが、病床でしたためたものです。

 ここでウルフは、病気でなければ見えなかった世界がある、と何度も書いています。ウルフは病に臥す者を「横臥する者たち」と呼び、対して、健康な人々は「直立人たち」と呼んでいます。横になった者たちの感じる深く繊細な世界、それをウルフはことこまかに書き記しました。
 たとえば寝ている病人は、ベッドから空を見上げます。こんなにじっくり空を眺めるなんて何年ぶりだろう……。

「通常ならしばらく空を見上げているなんて不可能だ。空を公然と見上げている人がいれば、道ゆく人たちは行く手を阻まれてイラつく。ちらっと見るだけの空は、煙突とか教会とかで一部欠けていたり、人物の背景だったり、雨だとか晴れだとかを意識する記号だったり、曇りガラスを金色に輝かせたり、枝と枝のあいだを埋めて、秋の公園で葉を落としかけた、いかにも秋らしいプラタナスの樹の哀愁を補完したりするだけである。ところが横になってまっすぐ見上げたときの空はこうしたものとはまるで違うので、本当にちょっと衝撃的なくらいだ。私たちの知らないところでいつもとこうだったなんて! ひっきりなしに形を作っては壊している。雲を一箇所に吹き集めては、船の荷台が連なったみたいに北から南へとたなびかせている。光と影のカーテンを絶え間なく上げたり下ろしたりしている。金色の光線や青い影を投げたり、太陽にヴェールをかけては外したり、岩を積み上げて城壁を作っては吹き飛ばしたりして延々と実験を繰り返しているーーこんな終わりのない活動が、来る年も来る年も、何百万馬力ものエネルギーを無駄にしながら遂行されていたなんて。」

 訳者は解説につぎのように記しています。

「インフルエンザ患者は、言語化しにくい苦しみや悲しみを胸に抱いているからこそ、(…中略)言葉にできない苦悶に思いを馳せることができる。彼女ないし彼は隔離中でありながらも、テクストを介して他人と連帯するのである。」

 病に臥してこそ見える世界。そんなことを想像しながら、どうぞ読んでみてください。

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