書くということ

話すことと書くことはどこか似ていると思う。
どちらも考えがキラリと鮮明になる。
ただ大きく違うと思うのは、うっかり言ってしまったという危険な弾みがない。
ゆっくり吟味して言葉を選び、したためられる。
自分のように口八丁手八丁な人間には尚更で、思いを縦横無尽に巡らせてじっくりコトコト煮込むのだ。
思いとは生きていく上でとても大切なんだと、ジェームズアレン氏は著書に綴っている。物事が上手く行かない時は、環境を変えてもう一度、心機一転という人が多いと思う。
しかし思いがなければ何も変わらないし、逆に思いがあればどこでだって、いつだって、どんな時でも始められるし、、変えられる。
アレン氏はそうも言っている。

書くことは思いを大事にしている実感がある。
普段うっすら思っていることでも、書くとその奥底にある真髄の手前くらいまでは到達できている感覚がある。
どちらかというと場当たり的で出たとこ勝負の人間であるが故に、そんな雑な自分にもひょっとして丁寧さを持ち合わせているのかも? と錯覚かもしれないが気持ちの好い心にしてくれる。

思いの大切さを顕著に感じたいので、今年一年書き続けるのだろう。

コンプレックス

コンプレックスがあって好かったね、なんて思う人はきっといないだろう。
できればそういう類のものはなく、真っ直ぐな道を歩いて行く方がよさそうだから。
けど、誰もが何かを抱えているものだとも思う。
容姿だったり、声だったり、不器用さだったり、今までの行いだったり。
周りから全く問題なしという合格ハンコを押されても、なんだか気持ちは清々しいとまではいかない。
さて、どうする?

エイ・ヤーと脱ぎ捨てられたらどんなに楽か。
しかし一生、洋服のように身にまとわなければいけないなら、できることなら邪魔ものにはしたくない。
できることなら味方にして、力に変えたいと思う。
コンプレックスを味方にするというより、見事に跳ね除けた人達がいる。
僕はその人達を表現者と呼ぶ。
押さえ付けるというニュアンスではなくて、解き放すと言ったほうが腑に落ちる。
その手段は実は難しいことでなくて、読む・書く・話す・作るという基本動作なのかも知れないと、まだぼんやりだけど思う。
コンプレックスから逃れるというより、それがあるからこの表現ができるという考え方ができたら素敵なんじゃないかな。

自分のコンプレックスは、どのやり方で解き放たれるのだろう。
よくビックリされるんだけど、何を隠そう人見知りなのだ。
ずっとずっと前からだ。
だから人物カメラマンなんだと、極めようとすればするほどそう思う。
カメラ道を邁進するほどに、カメラがないと人と話しづらくなる。
カメラで人と繋がっていないと、何にも出来なくなっている気がする。
きっとそうなのだ。
これもコンプレックスの賜物なのかもしれない。
とにかく心地いいので、やり続けてみる。

オーバーオール

子どもの頃のこと。特に小学校の高学年の思い出は、大人になってからも大きな意味を持つことがある。
時折、こんな話を本で読んだりする。
「小学校の時から好きだったから、今の仕事に就いてる。」
こんなことを爽やかに、きっぱりと言える人がとてもうらやましく思ったりする。
子ども時代に一生を決定づける体験や出会いがあって、それを逃さずキャッチする勘のようなもの。
人生の勘か、その言葉の中に強さと頑張り過ぎないやらかさが同居していて素敵だな。子どもならではなのかもしれない。
神様が与えてくれた特別なチカラに目覚め、それを追求した結果、仕事になりました。なんて恰好よく言えるとは、自分には想像もできない。
しかし、それが仕事ではなく趣味や日常の場面でも実はあるのだと思った。

それがオーバーオールだ。
小学5,6年の時はいつもオーバーオールだった。
その頃のその姿の写真もちゃんと残ってるし、頭の中のどこかにはずっとあった。
そんな昨年の夏、オーバーオールがやっぱり穿きたいと強く思った。
急いで作業着屋さんに行き、1本のヒッコリーのオーバーオールを見つけた。
40代半ばでまさかオーバーオールを購入するとは思ってなかったけど、
もっと驚いたのは友人について来てもらったのだ。
試着姿を見せて、いいと思う? 今思えば、相当応えにくい質問だと思った。
初めは妻の店の壁にペンキを塗る時や、大工仕事をする時にしか穿いてなかったけど、そのうちアルバム制作の時にもその格好をするようになった。
やがてエスカレートしてきて、なんにもない時にも部屋着として穿くようになり、やがて近所くらいならと歩いて1分の郵便局やコンビニにも軽々しく着て行くようになってしまった。
これがマズかった。
ついにこの前、超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。
ヨーガ教室まで自転車で10分の道のりを、着用したのだ。
周りの反応を気にしているココロは、すぐに悟られるもの。
透かさず先生が、「タケウチさん、可愛いい格好で似合いますねー。」って。
40半ばの男がヒッコリーのオーバーオールを着てくりゃ、先生と言えども動揺されたんだろう。
思わず出た言葉が可愛い、でした。
その日を境に、もうどこへでも穿いて出掛けられるようになってしまった。
そして相手の反応を楽しんでしまう自分がいるのも確かだ。
この人、今ココロの中でどう思ってんねんろ?
きっと何にも思ってないんだろうけど。
この前なんか、友人家族の家にこの格好でごはんを食べに行った時、旦那が訳の分からんことを言った。
「うちにオーバーオールで来たん、やっさんで3人目やわ!」
一体彼は何が言いたかったんだろ?
以外にいるから大丈夫、安心して、、という尖がった優しさなのか。
それとも、まだ3人にしか会ったことのないこの出で立ちに珍しいものを見れた、というサプライズ感覚なのか。
いずれにしてもあとの2人は女性らしい。そらそうだろー。
そう言えばこんな僕より上手がいた。
妻である。
僕より先にオーバーオールを買っていたのだ。
フリーマーケットで1本100円のものを。

夫婦で同じ日に穿くことだけはやめような。
そのうち、誰も喋ってくれなくなるから。

春の風のおじさん

やさしさって気づかいのできることなんだ。と、あるふとした事で改めて思った。
何となくやさしさには形があるように思う。
大きい小さいとか、深い浅いとか、長い短いとか。
でもそれはきっと受け手側の感じ方次第なんだろう。
こちら側がやさしさという行動を起こす前に、形にとらわれると結局何もできない。
こんなことをしても相手にとって有り難迷惑だの、なんだかんだ理由を付けて、
挙句には相手のせいにしたりしてやさしさのはずが、厳しい思いに変わったりして、そこにはもうさわやかさの欠片もない。
面と向かって何もできなくなった今の時代、少々お節介なくらいの方が失くしたものをまた、見つけられるのかも知れない。
あの円くやわらかで、でも冬の木のようにどこかピリッとした人情のある時代の瞬間を、また見つけられるかもしれない。
そんなことをガソリンスタンドの帰りすがら、ぼんやり空想してにんまりした。

灯油をタンクに入れ終わり、こぼした所を拭いていた時のこと。
後ろでおじさんが待っていたのが視界に入ったので、
「すみません、すぐにします。」と声を掛け、どんくさい自分とタンクをサッと慌てて拭き取っていると、おじさんが僕の目の前に何枚もぶら下っている袋を指差して、「その袋にタンクをいれればいい。」と清々しく教えてくれた。
大袋を手に取りタンクを入れようと手こずってると、透かさずおじさんが大袋の口を大きく開いてくれたのだ。
なんと気持ちの好いおじさんだ!
寒い冬に春の訪れを知らせる風のような人だった。
見れば普通のおじさんなんだけど、そこがまた好いのだ。
おじさんにとっては些細な出来事で小さなやさしさだったかもしれないけど、
僕にとっては胸に沁みる、大きくて深くてそしてずっと長く残るやさしさだった。

みんなのためとかじゃなく、目の前のその人が喜んでくれるようなやさしさを絶妙なタイミングで積み重ねて行こうと、強く思った。
もう春は近い。