ローガン

ローガン。
この響き、外国の俳優さんみたいでなんか恰好よく思える。
西部劇にでも出てきそうで、いい気分にさえなる。
いやいやならないならない、全然ならない。
実は老眼のことなのだ。
めちゃくちゃショックだし、腑に落ちないでいる。
俺が、この俺がローガン ?
完全なる正視だし、遠方視力は2.0だし、近方視力も問題ないはずだし。
ただ周りからはきっと、老眼は早いぞと脅されていたのも事実なのだ。
しかしついこの前まで、まさか自分の身に降りかかろうとは思いもしなかった。
自信とプライドがガタガタと音を立てて、今にも崩れそうである。
両手両足で必死に崩れないように支えてはいるのだが、
手でも足でもなく、眼なのだ。
相撲のように土俵際、相手をうっちゃる訳にもいかないのだ。
なんせ相手は自分なのだから。
静かにそれを受け入れるべきか、じたばたと駄々っ子のように見ないふりをして、真実から逃れるのか。
見ないふりというか、近くが明らかに見えにくいのだ。
そういうことなのだ。

カメラマンが天職という夢のような話を、キラキラした目で言い始めていた矢先のことで、まだ全然受け入れられないでいる。
こういうことを一つひとつ受け入れ、
乗り越えることが大人になるということなのか。
しかし悪い面ばかりではない。
新聞なんかに出ている3Dの記事が、やたらスカスカと簡単に見えるのだ。
あっこれは何々の形とか、人が二人座っているのが浮き出て見えるとか。
息子たちはポカンとした顔で僕を見ている。
父ちゃんすごいなぁという、憧れの眼差しにも見える。

大丈夫。その眼差しはよーく見えているぞ !

優しさに包まれていた

光は毎日とても意識しているし、敏感でもある。
人から相談事を受けたりすると、必ず最後にはこう言うのだ。
光の方を向いて歩いて行こう。あまりくよくよせず、前向きな姿勢で行こうぜ !
みたいにまとめるのだ。
しかしどうしてそんなに光に敏感になったのか、やたらとその言葉を使いたがるのか、ふと考えてみた。
いわゆる職業病 ? 写真を生業にしてるから ?
うん、確かにそれはある。
どこから光がサッーと射し込んでいるのか、逆にどこが日陰なのか、
ものすごく燃えるような眼力で絶えず見ていると思う。
どの方向へレンズを向けると美しく見えるか、時にはぼんやり時には鋭角に睨んでいる。
カメラ教室の生徒さん達には、光の方向へ構えると印象の明るい写真が撮れるよ。っと、述べている。
仕事を重ねていくにつれ、段々とより鮮やかに自分なりの光の捉え方が分かってきた。

カメラを持ち始めた時、色々な写真集を見て気に入った本に関しては、いっつも鞄の中に詰め込んで、
それこそ穴が開くまで何度も何度も眺めるというより、法則のような答えを導きだすかのように読んでいた。
図式化して芸術を分析していたのである。
“ パトリス・ジュリアンのカフェ ”という本と15年前に出会った時は、稲妻が身体の中をぐるぐると回転しながら抜けていくような衝撃を浴びた。
今もとてもとても大切な1冊になっている。
思えば自分が撮る写真の全てはこの時期に育まれたのだと確信している。
好きな写真はどれも、光の方にレンズが向いていた。
でも何故、シャワーのような光の流れを感じる写真に惹かれるのだろう。
また考えた。
そして一つの結論が出た。実は自分のルーツにあるのだと。

父親は照明デザイナーをしている。
言葉のイメージほど恰好よくはないけれど、でも職業を言葉にするとそうなる。
図面を引いて形にして施工するという、0から10までを自分の範疇としている。
物心ついた頃からの父親の印象は、夜遅くまで仕事で家にはいないこと。
それから家に居るときは図面を引いていること。
それから競馬をこよなく愛したことだ。
余談だがぼくが絶対に競馬をしないのは、そのせいだ、そのお陰なのだ。
しかしパチンコは別だった。
プロかという位にはまっていた時期がある。
光なんて全然気にもしない、むしろ暗黒の時代だった。

親父の口癖は、「 家暗いなぁ。」だった。
言葉の意味は、そのままだ。
もっとみんなニコニコ笑顔で毎日を過ごそうよ。みたいな深い真理をついたようなことではなく、言葉通り家が暗いのだ。
そう言って夜になると、家じゅうの照明を付けて回ったり、なにかというと新しい照明を付け替えていた。
破天荒で掴み所のない父親だが、幼少期に光をたっぷり与えてくれたことが、今に繋がっていたのだ。
全ての部屋が南向きにある平屋に今、僕は住んでいる。
自然光の射し込む家の爽やかさがしっくりくる。
照明デザインをする親父が選んでいた家も、そういえばやっぱりどの部屋にも自然光が射し込んでいた。

優しさに包まれていた。

これからも、何があろうと光をたっぷり浴びるように家族と生きて行こうと、子どもの頃の自分とその頃の親父を思い出して深く清々しく思った。

じゅうたん

年が明けるとしばらくの間、ぼんやりする。
一年間の慌しさの中、都合よく忘れてしまった大切なことの輪郭だけでもくっきりさせるために。
しかし場合によっては一気にジャンプをして、
「そっか、そういうことか!」と閃くことがある。
またまた場合によっては、人生って、生きて行くってそういう事なのかもしれない。
と、柄にも頭の隅にもないようなことをふと、さわやかに思ったりする。
ちょうど今年のぼんやりがそうだった。
昼頃ごろごろと暇をじゅうたんの上で、もて遊んでいた時のこと。
こんな時間に、それも突然に哲学はやって来る。
そういえば、京都の哲学の道も優しい佇まいだったように思う。
ぼんやりと時間を追い越したり、追い越されたり。
冬空の下、隅々まで染み渡る温泉の暖かさに身を沈めた時のように、
どっぷりと時間の中にこの身をおき、預けた一瞬にやって来るのだ。
僕にとって、自宅のリビングのじゅうたんが哲学の道なのかもしれない。
何をしても、何をしなくても許される自由な時間が、じゅうたんの上にある。

自分にとっての哲学の道があると、きっと清々しくいれるのだと思う。
かといって頻繁に利用するのもちょっと違うように思う。
きびしい毎日を過ごしているからこそのご褒美なんだろう。